HOME » 吉川佳秀プロフィール

がんと闘う

それは、私自身が、がんと闘うということではなく、がんと毎日毎日、今日この日も今この瞬間もがんと闘っている患者様に何か手を差し伸べたい、寄り添いたい、そして、患者様のご家族のみなさまの少しでもおちからになりたい、ということです。

30年、5年経っても

国が“がん撲滅”をテーマに掲げてから30年近く経ち、5年前には「がん対策基本法」も施行されました。その間、がんに対する手術技術や放射線治療の進歩、抗がん剤治療薬の開発、さらには炭素線・陽子線治療やホウ素中性子捕捉治療、幹細胞療法などの先進治療法などが生まれ開発され実際の治療にも役立ち、患者様に提供されてきました。

生きる支え

ただ、残念ながら現状ではこれら様々な治療法は、治療する側の病院・医師サイドからの一方通行の形で患者様に提供されるものが殆んどであり、患者様の立場に立ったより適切な選択方法とフェイス・トゥ・フェイスで心と心が向かい合ってフォローされる、言い換えれば患者様にとって“生きる支えになる”というがん治療の理想の形には達していません。もとより多くの患者様にとっては、いまかかっているお医者さんや病院の治療が一番の頼りになるでしょう。それでも、いろいろな事情で「もっと情報がほしい」「何か新しい治療法はないだろうか」あるいは残念ながら「どうも、今回で病院から見放されたようだ」などという方もいらっしゃるでしょう。

心と心で向き合う

私ががんの治療支援の事業に携わるきっかけとなったのも、多くのそのような方からの魂の叫びのような厳しい貴重なお話を伺ったからです。私はそんな方へのお力添えが少しでもできればとずっと考えてきました。

「自分にはいま何ができるだろうか」
「私がやらなければいけないことはなんだろうか」

今、それには私自身がまさにがんと闘うという強い信念をもって患者様やご家族の方々に心と心で向き合って行こう・・・と。

なんとなく、思い込み

「がんになったらどうする?」
「がんになってしまったけれど私にあった病院や治療法は?」

こんな時、皆さんはなんとなく「いい治療はお医者さんがちゃんとやってくれるよ」と勝手に思い込んでいませんか。しかしながら実際に病院に行き治療が始められるとそうでもなかったという現実に向き合わざるをえないこともしばしばです。
また、がんの最先端の医療施設を紹介されてもその費用が担保されなければ意味がありません。このような医療におけるミスマッチを防ぐためにも、私自身は今の日本の医療の現場とその制度の現実の問題点や課題、またそれに併せて健康保険制度について語り、もっともっと多くの方知っていただきたいと考えています。

羅針盤

そのうえで、患者様それぞれの「どうしたらいいか」「(治療の)どの方向にすすめばいいか」に私なり精一杯向き合い、できることなら患者様のがん治療の羅針盤になりたい・・・病気のこと、病院、医師、治療費、保険等諸々お金のこと、QOL、家族の生活・・・何にでもご相談に乗らせていただき、できる限りのお手伝いができればと思っています。

ひと手間

“ひと手間かける”という言葉が昔からあります。料理でも、なにかものを拵える時でも、ほんの少しだけ時間と手間をかけて普段の手順にちょっとした工夫を施すことですが、譬えていえば、皆さまのがんの通常の治療にこの“ひと手間、を”が私のお願いでもあります。

20年間の出会い

よく聞かれます、医者でもないのに何故がんに関わるのかと。
私はがん治療支援事業の前、20年間ソニー生命で生命保険の販売に携わってきました。保険の営業を行うその20年の間は、がんなどの重い病気と闘っている多くの方々に接する日々でもありました。幸い治療の甲斐あって病も癒え普段どおりの生活に戻られる方がいらっしゃる一方、病に耐える顔、辛く我慢を強いられ顔、覚悟を決めた顔、そしてやがて訪れる命の炎が静かに消える時・・沢山のそんな方々にもお会いしました。加えて周りの人々の疲労と喪失感は言葉では言い尽くせないものがありました。

私の使命

これらの経験から、ひとつの結論に達しました。どのような小さな叫びでもそれをキャッチし、謙虚に受け止め、方向付けのお手伝いをする。そして可能な限り長生きしていただき、生きる喜びを享受していただく道しるべを一緒に探したい、と。これこそが私の使命だ、と。
そして専門家の目線ではなく、お客様や患者様の目線で考えることならできるかもしれない、また多くの方々にお会いした経験から私なら患者様と共に歩むことができる、という強い想いから、私の使命を実現するため、がん治療支援事業の立ち上げを決意したのです。

944週

自慢話をするつもりはありませんし、がん治療支援とは直接関係もありませんが、私は保険販売では極めて優秀なセールスマンでした。「毎週一本とりあえず保険を取る」という初期の目標はなんと退社するまで944週続くことになります。入社5年目の1990年頃には既に会社から立派な個室を与えられ、秘書もつけてもらい、何千人もいる営業マンのなかでも常にトップクラスの成績をあげ、給料は固定給でなく歩合制ですから、大変な高収入を得ていました。そんな、あぶらの乗りかかっている頃、ちょうど世の中もバブルの時代ですが、自らが招いたこととはいえ、とんでもない目に遭います。

10億円

1985年頃でしょうか、マンションの建替えのための融資を受けていた銀行の幹部から“楽して儲かる”話の声が掛かります。銀座の画商を紹介されました。「一度ニューヨークのオークションに行きましょう」という画商の言葉がやけに耳に心地よかったことだけは憶えています。
そのオークション参加から3年間、年2度数週間かけてニューヨーク、パリ、ハワイなどを回りました。その間、何十億というお金を絵に投資する資産家や企業の社長、有名弁護士等にも出会い、私もこの人達の仲間だという満足感がありました。そして自分でもウォーホールの「ダブル・マリリン」を3億2千万円で購入、一年で8千万の利益を得ました。
今から思えばこれが地獄の始まりです。銀行からお金を借り次から次へとマンション・別荘などの不動産に投資し、結果として3年ほどで10億のお金をドブに捨てたことになったのです。
私のバブルも3年ではじけました。それでも、この時期、普段の営業では毎日銀座や新宿に繰り出し富裕層から芸能人まで保険を売ることはやめませんでした。それをやり続けることで自分が馬鹿な投資をしている後ろめたさをぬぐおうとしていたのかもしれません。

“身上(しんしょう)”ぼろぼろ

精神的にも肉体的(1990年にはヘルニアを患い90日間入院)にもそして“身上”もぼろぼろになりました。人生初めての危機に直面したのです、それでも誰を恨むでもありません、みんな自分がして来たことですから。
これからは本業の保険販売に回帰してひたすら保険を売り続けることです。
1999年には親から引き継いだ不動産も手放し、さらに保険を売ることによって借金は12分の1まで圧縮できるところまできました。それでもバブルの終戦処理は容易ではなく今も続いているのが現状です。

何かができる

この時期には保険営業の対象は多方面に及び、営業活動も多岐にわたっていました。バブル崩壊後も何かと支えてくれた人たちや大切なお客様ががんに罹るケースもしばしばあり、その関係で私も各地の病院(重粒子線治療の放射線医学総合研究所も度々訪問)や医師を訪れることが頻繁にありました。したがってがん治療に深く関わりを持ち始めたのもこの頃のことからです。そして同時にここら辺りから、私の人生の転機のキッカケとなる「保険以外にも何かができる」という考えが芽生えてきたのです。余計なことですが、2000年には心機一転、妻と別れ24歳年下の嫁を貰いました。

二足の草鞋

2002年、51歳でしたが、保険の仕事も一段落と考え、当時の社長の許可を得てソニー生命本社内に「品川地区粒子線開発計画」のプロジェクトを立ち上げました。放射線医学総合研究所や大手電機メーカー、大手ゼネコンなどが参加し300億の予算で粒子線治療を中心にした施設を建設するというものです。保険会社が主体ですから「保険に入ったらがんが治せる!」というある意味、突拍子もないものでしたが。
そして、そのプロジェクトが2年ほど経過した頃、参加していた放射線医学総合研究所の平尾泰男先生(日本初の炭素線治療開発者)が仰ったのです。「吉川さん、この仕事は保険営業との二足の草鞋ではできないし、がんの人は救えないよ」と。
プロジェクトは結果的には実現しませんでしたが、先生の言葉が私の背中を押してくれました。

500回・5万人

2004年9月にちょうど20年勤めたソニー生命を退職し、10月に株式会社アムテックスを創設しました。いよいよ本格的な、そしてこの時から専業のがん治療支援事業がスタートします。
以降の主な活動は、広島県呉市など全国の自治体への重粒子線治療施設建設等の推進や働き掛けを継続的に行い、現在は経済産業省の外郭団体である財団法人日本立地センターを事務局とした「企業誘致方式による炭素線がん治療事業化研究会」のメンバーとして普及促進と自治体へのアプローチを行っています。ただ、私自身で施設運営をするつもりはありません。私はいかにその施設に患者様を集めるかという“集患”に注力します。現在行っている保険会社代理店や募集人を対象としたセミナーやトレーニングもその一環です。セミナーの内容はがんやがん治療に関する知識・情報とがんファイナンスについてのことですが、すでに全国で500回以上の開催、延べ5万人以上の方に受講していただき、おかげさまで今では、保険会社ががんの新商品を出すたびにセミナーのオファーが来るという状況になっています。
また、具体的にこれからはアムテックスの創業理念を継承したHMCで、ファイナンスをしたり、がんの羅針盤であったりする「プラザ」の実現を考えています。

がんの相談室

2006年アムテックスの事業の一環として実際にがん患者様の治療を行う『がんの相談室 東京クリニック』を立ち上げました。支援ではなく診療です。東大放射線科助教授とまだ保険診療でなかったサリドマイド療法の医師を向かえ、末期がんの患者様の治療を行い始めました。しかしながら、クリニックの経営は素人のうえ、時に重粒子施設に送患しても末期の方ばかり、さらにCT機器等の固定経費が膨大にかかり開院1年あまりで閉院せざるを得ませんでした。それでも、250人余りの患者様に自ら営むクリニックで実際にお会いできたという経験は、私の現在の事業の糧となっていると確信しています。

江戸っ子の矜持(きょうじ)

私は終戦からまだ6年しか経っていない1951年東京日本橋の料理屋に生まれました。ですからいわゆる江戸っ子ですが小さい頃は弱虫で、いじけていて「よた」と呼ばれていました。(長じて人様に保険の勧誘をしたり、人前で講演したりすることが、どう繋がってくるのかは不可解ですが)。幼い頃に母は出奔し、父もその後に祖父母に勘当されたので、私は祖母に育てられることになります。その祖母は芸者衆上がりだけあって実に多芸で“粋”な女性で、私も幼少から小唄、都都逸、浪花節に親しみ相撲、落語、歌舞伎好きは祖母のDNAをひいたのかもしれません。また下町女性の典型のお節介・世話好きで、ここらあたりも私の性格形成に大いに影響を与えてくれました。「いざという時のために、商売の切っ先が鈍らないようにしておけ」という祖母の口癖は私がどんな仕事についても心に刻んでいる訓です。私が27歳のとき膀胱がんの肺転移で1年余りの闘病の末亡くなるのですが、最後は私が面倒を見ました。良きにつけ悪しきにつけ私の人生のかけがえのないお手本であり、江戸っ子の矜持を教えてくれた人でした。

60過ぎたら

今、人生を振りかえればさんざん行儀の悪い事や不調法な事をやり、お金もスッテンテンになりました。ただ、まだこうして命を頂いているのは、神様が「何か人様の為になることをしろ」と言っているに違いありません。
数多くの失敗をすると人は他人にやさしくなれるものです。40代で嫌な奴、50代で馬鹿な奴、60を過ぎたらもっともっと自分を磨かなければいけません。今まで私を支えてくれた人たち、そしてこれから出会うであろう多くの人たちに、生きるためのちょっとした何かを提供し続けようと思っています。

がん治療支援者
医療コンサルタント

signature

pagetop